G6-VW1500





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趣味の自作航空機 ジャイロプレンの実際 上巻 実践編 (その2)
GYROS mffm MY FAVORITE FLYING MACHINE  since 1969
©June 2017 M.Kokubun 國分正紀
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予備知識  
スペインのシエルバ(Juan de la Cierva)は、自分が設計した飛行機が、飛行機に本質的な特性(機体全体が失速する)を原因として墜落したことを背景に、そのような危険が無い航空機の研究を始め、オートジャイロ(Autogiro)と名付けた航空機を発明して成功した(1923年1月)。それは改良されて、滑走しなくても離陸出来るようになったが、空中に停止する事は出来ず、着陸時には短い滑走が必要であった。 一方でヘリコプタ(ヘリコプター helicopter)が成功して進歩し実用化された為、第2次世界大戦後にオートジャイロは姿を消した。しかしアメリカのベンセン(Igor B. Bensen)がスカイスポーツ用の超小型軽量・単純な構成のオートジャイロを開発して成功させ(1955年12月)、これをジャイロコプタ(ジャイロコプター GyroCopter)と名付けて、普及をはかった。
航空法令上の呼称は、オートジャイロもジャイロコプタも含めてジャイロプレン(ジャイロプレーンgyroplane)である。一般的に、総称して単純にジャイロと呼び表わす事も珍しくない。ヘリコプタもジャイロプレンもローター(回転翼)によって空中に浮揚するのだが、ヘリコプタのローターが動力によって駆動されているのに対して、ジャイロプレンのローターは通常動力には繋がっていない。機体が進む時の相対的な風圧によって自動回転(オート・ローテーションautorotation)して浮力を発生させている。次の概要図はベンセン式の例。
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趣味の自作航空機 ジャイロプレンの実際 上巻 実践編  (その2) 11

Kokubun Model G6-VW1500 JE008 Since 1990
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 Kokubun Model G6-VW1500 JE0084
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王城寺原演習場 宮城県大和町
1975年(昭和50年)から76年にかけて、福島県における自作航空機愛好者、特にジャイロプレンに関心があるメンメンがクラブを結成した事があった。クラブは自然消滅となったが、当時の機体の状況は、テスト・ラン段階のもの3機、製作中2~3機。
やはり訓練する場所が問題であちらこちらと歩き回ってみた。郡山市にある陸上自衛隊の演習場には、私のK7ローター・カイトを持ち込んだ事も有ったが、その時は風が無くて何も出来なかったし、動力飛行訓練には狭いと判断した。次に目を付けたのが北隣り宮城県の大和町、陸上自衛隊の王城寺原(おおじょーじばら)演習場。広大な演習場のゲートを過ぎると、すぐ右側に着陸場の標識。 吹き流しが立っていて不整地ではあるが、時々L19の訓練に使用するとかの約600mの滑走路が有った。ゲートとは言っても立看板と敷地内の案内図が有るだけで、休日には誰でも入り込める状態らしかった。
それで、ある時ジャイロコプタ2機とジャイログライダ1機をトレーラーに積んで夜中に出発、4時間ほどかけてテストに行った。成果はコプター1機とグライダーが浮上に成功、但しグライダーは小破した。
演習場の1976年当時の案内図によると、中に「弾着地」なんてのも有り、下手に不時着すると不発弾が有ったりして・・・ヤバイ・・・。
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ジャイロプレンに復帰  
気象条件が良ければ、ウルトラライトのクイック・シルバーMX機はワンダフル。 無風でもほんのチョット滑走すれば浮き上がり、素晴らしい上昇をする。しかし、いつも河川敷内に置きっぱなしには出来ないので、クラブや会員個人の機体数機の組立や分解、そしてトラックに載せて移動する為に大変な労力と時間を要し、正直な所その様な事に嫌気がさした。ウルトラライト機の技量が有る程度安定した頃、またジャイロプレンに戻ろうという気になった。(なおクラブには、複座のコマンダー・ジャイロを所有している人がいたが、飛び上がる事は無かった。) 
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   <係留不備で春の突風にやられた、クイック・シルバーMXII HP>
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  <G6-VW1500型 のベース (須賀川市にて)>

そこで、昔々のマイ・ジャイロG6-2DK型の整備を開始(1989平成元年)。一部マイナー・チェンジ(ローター・ヘッドは新設計の物、尾翼は作り直し、燃料タンクは流線型のグラスファイバー製)したが、ローター・ブレードは1973(昭和48)年に製作して 一時回転翼凧(ローター・カイト)K7型に使用したベンセン式木製の物。15年以上もほったらかしだったから、さすがに表面の塗装が傷んでガサガサ。これは剥離剤を使用してはがし、再塗装した。プロペラは1970(昭和45)年製作のラワン合板製でグラスファイバーで補強した年代物~これも再塗装してバランス・チェックした。これが、後に登録したG6-VW1500型のベースで有る。

安全管理者制度 
1988(昭和63)年暮れに入会した、阿武隈フライング・クラブに於ける超軽量動力機(ウルトラライト機)の訓練は、実質的に1989年(平成元年)から始まったのだが、クイック・シルバー機で操縦技量認定を取得し、有る程度技量が安定した頃(1989年秋)。ジャイロプレンに対しても超軽量動力機と同じように、登録制度、型式認定制度、安全管理者制度が適用されるらしいとの情報が、日本自作航空機連盟のジャイロ部会からもたらされた。ジャイロプレンの要件を定める為の、或いはそれを見直す為の実態調査も行われようとしていた。中でも、安全管理者制度が特に気になった。どうやら飛行許可を得る条件の一つが安全管理者、即ち安全管理者が居なければ飛行出来ない事になるらしかった。しばらくして、過去に実績が有る者については講習を受ければ、財団法人日本航空協会が発行する資格を与える旨の案内と、受講申込書が送られて来た。他の有資格者に依頼して、その管理の元で飛行する方法も有るが、これではつまらない。自分の機体と飛行は自ら管理しようという事で、結局翌1990(平成2)年春、上京して新橋の航空会館で受講したのだが、このような背景があった事も
ジャイロプレンへ復帰する理由の一つで有った。
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<(財)日本航空協会発行の資格証>

機体の現状調査 
平成2年2月26日付けで、日本自作航空機連盟のジャイロ部会が、ジャイロプレンの機体現状調査を実施する旨の文書を配布した。フォルクスワーゲンやスバル等4ストローク・エンジンを搭載した機体にとって、「単座機は150Kg以下」というのは余裕の無い規定で有る事がその背景であった。後年この規定は超軽量動力機(飛行機)の実態調査等をも勘案して、クラス別の規定を追加して改訂された。

ロールアウトはしたものの 
従来のG6型ジャイロの性能アップを狙って、ディスク・ローディングを小さくするべく直径約7メートルのローターで計画、G7型とするべく進めてきた~かつて一度K7型ローター・カイトで使用したローターを搭載した機体。1990(平成2)年5月、重量重心の計測をやって、阿武隈川河川敷の滑走路へトレーラーに載せて搬入~ロールアウト。だが拙い事が2つ重なって、何の成果も得られず撤収するハメに陥った。
  1 気象条件とローター・ブレードの不出来~このローターは無風状態でハンド・スタート出来なかった。
     省りみれば15年前、それやこれやの理由でK7型ローター・カイトで遊ぶ事を諦めたのだった。
  2 所属するクラブに対する根回し~先立ってこれをせずに搬入した為か、
    「当局の許可を得なければ、滑走路使用を認めない」と言い渡された。
得難い滑走路を使用して、ローターをフル回転させて高速滑走、あわよくば軽く浮上と目論んだのだが、尾翼を湿った砂で汚しただけの結果。しかし、このような事がきっかけとなって「G7型」ではなくて、「新しいG6型=G6A型」、後に「G6-VW1500型」としての登録へ進む事になった。
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<自重測定~ヘルス・メーター3個使用>  
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<ハング・テスト~重心位置測定>
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<河川敷の滑走路に出したのだが・・・尾翼面左右の汚れ具合が異なる>

航空協会の意見 
当時日本で飛んでいたジャイロプレンの実態調査に基づいて、「ジャイロプレンの要件」が定められ、航空局通達(サーキュラー)に明文化されようとしていた。見通しとして、超軽量動力機と同じく単座機の自重は、150Kg以下と定められる方向だった。軽量大馬力マッカラー・エンジン搭載機や、減速ギア付きロータックス・エンジン搭載機にとっては余裕十分であるが、フォルクスワーゲン・エンジン搭載機に関しては厳しい規定である。
先の測定で、自分の「XG7型」は約153Kgで規定オーバーは明確だった。また大雑把な計算だがローター・ハブ・プレートを従来の「G6型」同様短くすれば規定内に入る事も分かった。なお自重の問題の他の事でも、「要件」を満たさない機体は「自作航空機」として扱われ、登録にあたってはより厳しい審査がなされると考えられた。そこで自分は古い実績を説明して・・・出来れば「自作航空機」として登録したいのだが・・・と相談の手紙を1990(平成2)年5月29日、(財)日本航空協会の担当部門へ出した。間もなく回答書が送られてきて・・・自作航空機で無いジャイロプレンとして登録すべきである・・・となっていた。一つの理由として、自作航空機としてのジャイロプレンの操縦資格に関して、まだ明確な基準が無い事が上げられていた~類似する航空機の操縦技能証明を有していなければ航空局は操縦許可を出さない~では類似する航空機とは何か?と言った問題が懸案事項らしかった。自分の勘ぐりと言う訳では無いが、ジャイロプレンの構造や飛行特性から、類似する点がそれぞれ有る、飛行機とヘリコプタの両方の操縦免許を要求されてはかなわない。そこで心機一転、ローター・ハブ・プレートを短くし、更に重量削減すべく細々した改修を施し、<後腐れの無い様に>立ち会い測定を実施すべく、再度滑走路へ運び込んだ。
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  <自重 測定>             
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<全備重量 測定>
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 <左主輪側 重量指示値68.5kg>       <右主輪側 重量指示値69.0kg>
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 <尾輪部 重量指示値12.0kg>
ヘルス・メーター3個の重量指示値合計は、149.5Kg~ 「要件」規定値150Kg未満でOK。
以上の結果をふまえて早速機体の登録手続きを行い、1990(平成2)年6月11日登録完了、識別記号JE 0084を取得した。

ヘルス・メーターの精度 
ヘルス・メーター(家庭用体重計bathroom-scale)を使用した自重測定結果は、149.5Kgで、ジャイロプレンの「要件」(150Kg以下)を満足するものの、ヘルス・メーターの精度や測定誤差を考慮すると少しでも余裕が欲しい。例えばあるヘルス・メーターのパッケージには、精度に関して次のように説明されている。
「計量法に定められた技術基準で製造し、厳重な検査の上出荷しているが、次の範囲まで精度を保証する」
60kgまで測る場合          プラスマイナス 1.2目盛 (1.2kg)
60kgをこえ120kgまで測る場合  プラスマイナス 2.0目盛 (2.0kg)
今回の自分の機体については、 実際上は有りにくい事なのだが、 最悪の場合 2+2+1.2=5.2kg軽く指示されているかもしれない。5kgの重量を削り取るのは容易では無い~例えばコックピット・エンクロージャの重量は約5kg、垂直尾翼の重量も約5kgなのだ。それで5.2kgはともかく、ハンパな数値0.5kgを無くすべく更に重量軽減を行い手持ちのヘルス・メーターを使用しての指示値合計が149kgになるようにした。
仕様書はその数値でまとめて登録手続きを行なった。 

G6A型 JE 0084 初浮上  
1990(平成2)年10月28日。識別記号JE 0084を取得した新生G6型~G6A型は、その後飛行許可手続きを済ませてジャンプ飛行訓練に進んだ。約400mの長さの滑走路を往復して、ローターのトラッキング状態やエンジンの調子を見ながらタキシング、そして主車輪のみでバランスを取りながらの滑走訓練をやり、徐々に速度を上げていった。その内気が付くと機は浮上しており、スロットルを静かに戻して接地。短い滑走距離で早くジャンプしよう、飛行しよう等と意気込む事なく、意識しないでやっている時はこのように案外簡単スムーズに行く。
これは昔々G6-2DK型で初浮上した時と同じで、当時の事が思い出された。
このようにして誕生したG6AはG6-2DKの改良型、マーク IIであるが、型式認定を取得して「G6-VW1500型」となるには、更に1年近い時間を要した。 
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 <1990.10.28>

G6-VW1500型 型式認定 
G6-2DKオートジャイロの改良型マークIIであるG6型は、量産して販売する事を意図した物では無い。従って世の中に1機しかない機体なので、実用機の世界にあてはめて例えれば、型式証明は要らない~単に耐空証明があれば良い~いやもっと単純に試験飛行の許可さえ出してもらえれば、それで良い。ましてや自分の体格に合わせた自分専用の機体なのだから。しかしルールが既に出来ていて、平成3年4月に東京新橋の航空会館で説明会が催されて、これに従ってやる事が継続的にスムーズな飛行許可に結びつく~「審査は昔の実績を尊重するから」との奨めも有って、型式認定申請をやった。結果1991(平成3)年9月20日、(財)日本航空協会から型式認定オーケーの電話連絡が有って、しばらくしてから赤色の「暫定」印が押された仮の型式仕様書が届いた。「暫定」印が無い上質紙に印刷された仕様書が発行されたのは平成5年2月になってからであった。
 型式番号   JA91-GO-001
 発行年月日 1991年11月1日
 型式名    国分式 G6-VW1500型
日本に於ける「決め」=「航空局通達」では、試験飛行許可申請の度に多数の書類を提出しなければならない。しかし予め(財)日本航空協会の型式認定を取得しておく事によって、例えば設計製作に関する書類を省略して良いと有り、これは申請する者および審査する者双方にとってメリットがある制度。特にウルトラライト飛行機の様に、同じ型式の機体が多数普及して多くの人々が頻繁に申請する場合、その背景には機体の製作会社や販売会社、さらには教習スクールの思惑などもからんで、その恩恵は著しいと考えられた。そのあたりの事情を示すのが、型式仕様書にある「暫定」の意味で有り、送り状にある説明である。
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<型式仕様書の一部分>
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<型式仕様書の送り状>
 
壊れた尾翼  
G6-VW1500型ジャイロプレンは、長い滑走路でスムーズにジャンプ飛行する事が出来た。ジャンプ飛行に十分慣熟した後、訓練の次のステップは、如何に短時間短距離でローター廻転数を離陸可能な所まで加速するかが課題である。これが出来ないと余裕有る上昇飛行に移れない~周回飛行に進めない。
この訓練中の失敗例が次の写真で、ラダー(方向舵)上の黒い線は、地上滑走中にローター・ブレードが叩いた跡をフェルト・ペンを使用して直線で結んだもの。
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設計製作上は言うまでも無い事であるが、ローターが廻転していなくて従ってローター・ブレードがドループしていて、なおかつ操縦桿が後方ストッパーに当たるまで引かれていても、ローター・ブレードはプロペラ先端及び垂直尾翼から十分離れている。機体の尾輪が地面に付いた機首上げ状態では、ローター・ブレードの先端が地上にまともにぶつかる~機首下げ(前輪が地面に付いた状態)時は、地面の起伏状況にもよるがブレード先端は、地面をかする程度である。当該失敗例の場合、ブレードは尾翼を叩いたがプロペラに接触する事は無かった。そして機体はまだ浮上していない(主車輪は地面に付いていた)にもかかわらず、ブレード先端は地面を打たなかった。次の図および写真を参考にしても、(プロペラとの接触はキワドク避けれたとしよう)尾翼を叩く程に撓んだブレードが地面を打たなかったのは全く不思議である。
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原因はローター加速操作の不首尾  
Bensen式 木金コンポジット・ローター・ブレードのフラッピング振動モード解析結果を示すある資料によると、ローター回転数300rpmについて行われた結果は、ブレードに特別な欠陥が無ければ、高次の状態は実際には起こらないような気もするが、1次及び2次の状態は、もっと低い回転数でも発生する事が経験的に知られている。
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参考文献 : SPORT AVIATION 誌 Feb. 1979
            Technical Synopsis : The investigation of some unusual handling
            characteristics of a light autogyro

             (A paper presented at the second Europian Rotorcraft Forum,
             Sep. 1976, by : J. Przybylski, R. L. Toms and
             I. C. Cheeseman, Dept. of Aeronautics and Astronautics,
             Southampton University, Southampton, U. K. )

即ちローターをハンド・スタートさせて滑走開始した後、前進速度(正しくは対気速度)とローター・スピードの加速とがマッチしないと、ブレードはこの様に撓んで(俗にローターが暴れると言う)傍目にもクネクネ・フニャフニャして回っているのが分かり、操縦者は揺れる操縦桿を注意深く握っていなければならず、正しく対処しないとローターのシーソー運動(=フラッピング)は過大になり、ハブ・プレートがシーソー・ストッパーにぶつかる程(=オーバー・フラッピング)になって、操縦桿は激しく強く揺すられるので其の保持も困難になる。回復の唯一の方法は、スロットルを絞って減速し、操縦桿を前へ押してローター・ディスクの迎角を小さくする(=アン・ピッチ~アン・ロード)事。この様な望ましくないローター・ブレードの運動には、そのきっかけが有り、一つは上記の様なローター加速操作の不首尾。他には突風や不整地走行時の機体の上下運動が加振原因となりうる。自分の例では、後退側のローター・ブレードは図に示す線の様に撓んだと推定され、「ローター加速失敗~やり直そう」と思ったとたん、後方で何かがぶつかる音がし、操縦桿が大きく揺すられたので、即減速してアン・ピッチ操作をした。だからブレードは其の1枚が1回だけ尾翼を叩き 尾翼は修理を要する程にやられたが、結果として1枚のブレードの前縁の1部が少し平らになった程度で助かった、地面を叩いていれば泣きをみた筈。

みっともない裸のジャイロ  
あれやこれやの経過を経て誕生したG6-VW1500型ジャイロプレンであるが、十分満足出来る飛行実績は積めなかった。その原因は、第一に出来の良くない木製ローター・ブレード、第二には平坦とは言えない滑走路面、第三には自分の操縦技量未熟と判断の甘さも認めざるを得ない。ローターのハンド・スタートに問題は有るがロング・ハブ(900mm)も使用してみた。ディスク・ローディング(円板面荷重)を下げる事が目的で有って、更にコックピット・エンクロージャー(キャビン)や余計な計器類を取り外して、より軽くした状態での飛行もやってみた。一旦オートローテーション状態に入れば、そこそこの飛行が出来たが、キャビンで囲う事を前提としたゴチャゴチャした裸の機首部はみっともなく、 嬉しくも楽しくも無かった。
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<ロング・ハブ木製ローター・ブレード  計器はウインド・メータのみ>

支柱付き平板垂直尾翼  
地上でローター加速に失敗して垂直尾翼を傷めた時、それを修理する間一時的に平板尾翼を使用した。形は異なるが、ベンセンのプラン図面にある尾翼と基本的に同じ構造で、合板の要所をアルミ合金板で補強した物。これをキール・チューブの左側に取付け右側のVストラット(支柱)で支えた。この平板尾翼は新たに製作したものではなく、かつて燃料枯渇事故でローター・ブレードと尾翼を大破した後、しばらく経ってから作ったのだが、その後空の活動を中断している間ストックしていた。2003年の今も残っているので平板尾翼の年齢は約25。
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<G6-VW1500型阿武隈川河川敷>

上昇しない恐怖~不時着 
ある時ジャンプ飛行の結果十分いけると判断して、上がると宣言して出発したのだがどうも上昇がおかしい。滑走路は中途半端に後ろ下、高圧電線はだんだん迫ってくる。思いがけない事で、まあパニック状態。機首を少し押さえ加速して左への緩旋回をしながら最初の堤防の上を通過する。180度近く回り込んで追い風コースに乗る。次の堤防に対処すべく浅くダイブして更に加速。軽く引き起こして2番目の堤防を飛び越す。コースの一部は川面上、何やら大分沈下したようで、左右を過ぎ去る立木は眼の下ではなくて横に見える。そして気が付けば目前に雑木林が迫っている。ヤメタ!でスロットルを絞ってフレア操作。急減速して草むらに不時着。やれやれ今回はローターは助かったと思ったのもほんの一瞬で、機体は左側にズリ落ちる様に滑って横倒。エンジンをカットしなかったので、結局プロペラもやられた。
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<×印地点に不時着大破 ↑>

「上昇しない恐怖」、体験して初めて分かる。年代物のローター・ブレードとプロペラはこの様にして失われた。とりわけプロペラは機体とエンジンにマッチしていたと思うので残念至極。
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 <20年物のプロペラ>  <カット部分の断面>

Uターン飛行 
ストックしてあった材料を使って、新たに製作した木製ローター・ブレードとプロペラを使用して訓練~試験飛行再開。先のローターに比較すれば新しいだけ、性能は悪くない様な気がする。悪くはないと思うのだが、先の不時着事故の事が頭に有り、仲間の目も有るので、慎重に判断しないと場周飛行には出られない。だからハイ・ジャンプ飛行や蛇行をやったりして遊んで溜飲を下げる。
全く無風の時を選んで、低空緩旋回 U ターン飛行もやった。ある時は、「何とかゼヒとも」と言う自家用操縦士の方の頼みを断り切れなくて、地上滑走試乗させた所、ローターがオーバー・フラッピング状態に陥って、プロペラ先端がローターのテンション・ストラップ下面をこすり、更にどういう具合かラダー・コントロール・ワイヤが切れた。これもプロペラと干渉した為、プロペラは補強修理を要した。しかし、この様な状況の繰り返しには嫌気がさす。総合的に判断するとエンジンに問題は無い。信頼出来る実績のある完成ローターを入手すれば全て解決する筈。
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<無風時の低空緩旋回 U ターン飛行>

燃料系統のトラブルと愉快な事実 
諸々の要因故に順調とは言えなかったG6-VW1500型ジャイロプレン。燃料系統のトラブルもいろいろ有った。グラスファイバー製の燃料タンク~石膏型から雌型を取り、これから2個の半割り状態の上下部品を製作して接着した物。容量は規定をオーバーしていたが、その当時定められた「決め」では印を付けてそれ以上の燃料を搭載しなければ良いとされた。それはともかく、後に接着部分から燃料が滲み出るようになった。それで修理する代わりに、グラスファイバーの上部を大きくカットして開いて、中に市販の10リッター・ポリタンクを入れて対処した。キャブレターに関しては加速ポンプが正常に機能せず、スロットル操作に対してエンジン廻転がスムーズに追従しない事があり、これは分解清掃で解決した。また有る時は、プロペラの前後や尾翼の汚れ具合がいつもと違うと思って点検したが原因が分からず、気にしない事にしてやっていた。そのうちに状況は無視出来ない程になったので、より注意深く観察した。キャブレターから白い糸状の物が廻転しているプロペラの方向へ引かれている。驚いた事に、それは糸等では無くて燃料だった。加速ポンプのダイアフラムが劣化してクラックが入り、組付け部分からの漏洩を起こしたのである。この段階ではエンジンを停止させても燃料が滴り落ちる事が確認出来た。フォルクスワーゲン・エンジンの部品は、手を尽くせば入手出来るらしい事は分かった。しかし時期的にはVWエンジン搭載のジャイロプレンもそろそろ潮時と考えていた頃なので、解体自動車の燃料系統部品から入手したゴム板を加工してしのぐ事にした。
一方これはトラブルでは無いのだが、自己満足めいた、ちょっとばかり嬉しい事も有った。それは燃料給油の事。これはエンジンが4ストロークなので可能だったのだが、 トレーラーに載せて飛行場に行く途中、 最寄りのガソリン・スタンドで機体のタンクに直接給油してもらった。それでとりわけ愉快だったのは、まともな?ガソリン・スタンドではポリタンクには灯油しか入れてくれない~ガソリンは不可なので、予備燃料用として金属製の携行缶をいつも用意しているのだが、機体に搭載してあるポリタンク(安物)には無条件で給油してくれた事実である。もっともトレーラー上ではなく、スタンドの敷地に舞い降りて給油して、また次の目的地へ向けて飛び上がれれば大満足なのだが・・・。
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<ガソリン・スタンドで給油>

ありがたくウレシイ「決め」  
ローターは何を使用しても良い!?。順調に推移しないG6-VW1500型ジャイロプレンの現状を一気に解決しようと、以下に記するがごとき日本らしくないと言っては何だが、日本独特の事情背景~「非常にありがたくウレシイ決め」を活用すべく、1994(平成6年)初春、アメリカ製の完成金属ローターを発注した。
次の図は(財)日本航空協会が1990年7月31日付けで発行したジャイロプレン型式仕様書の一部分。これはベンセン式 B8-M型の例だが、ベンセン式の他の型式およびエアコマンド式の幾つかの型式に付いても同様の仕様書が発行された。面白いのは「装備出来るローター型式」で、当時日本で入手出来たローター・ブレード全てをカバーしている事で、その全てのローター・ブレードの一覧表によると、ローターの直径は6.12mから8.84m、重量は15.3kgから34.7kgまで幅が有る。
これらのローターを搭載する事によって機体の重量が変わり、ディスク・ローディングも変化する。その当然の結果として性能値に影響が出る。伝え聞いた所によれば これらの仕様書をまとめ上げる過程で、当局の担当者からそのあたりの事を指摘されたとか。が、ともあれジャイロプレンを実際に運用する者にとっては「歓迎すべきウレシイ決め」で有った。「有った」と言うのは、ずっと後で改められたからである。
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金属製ローター・ブレード 
不本意なG6-VW1500型ジャイロの現状を打開すべく1994(平成6)年2月末に発注した直径23フィートの金属ローター( Dragon Wings Rotor - Rotor Flight Dynamics, Inc. USA )が、比較的早く4月に届いた。当時アメリカで話題になっていた評判の悪く無い物で、更に他のブレードに比較して安価であった。
自分としては初めて入手した完成金属ローター・ブレード。毎晩眺めながら、これは承知の上の事だったがハブ・バー(ハブ・プレート)の改造を模索した。即ち自分のローター・ヘッドは、一般に使用されているベンセン式を踏襲したそれらとは異なる設計だからで有る。大きな違いはハブ・バーの幅で、自分のは基本寸法が70ミリ。対してベンセン式は基本寸法が2.5インチ(約60ミリ)。今回の製品はハブ・バーを含む物でそのサイズは後者である。幸い自分のローター・ヘッドは前者に合わせたヨークの幅が広い物なので、アンダー・スリングの寸法も考慮してシーソー・ブロックを改造組立して対応した。
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ハンド・スタートで疲労困ぱい 
1994(平成6)年5月1日。ローター・ハブの改造と機体の整備がゴールデン・ウィークに間に合い、この日飛行場へ搬入するもあいにくの雨。
5月3日。メーカーの説明書に従ってローター・ヘッドのトリム・スプリングを調整する。ローターのハンド・スタートが非常に困難でオーバー・フラッピングを起こしやすい。疲労困ぱいの末に、ようやくジャンプ飛行の為の滑走に移る。操縦桿からの反力が従来と異なり油断出来ない。ジャンプする。ノーズヘビーで操縦に力が要る。
そういえば説明書に、このローターの特性は他のどのローターとも異なると記してあった。ここまででクタクタに疲れた。心身を冷やすべく今日はここで中止とした。
5月4日。縦のトリムを再び強く(ノーズ・アップ方向)に調整。やはりローター始動に手こずるも、慣熟ジャンプ飛行を繰り返す。そのうち強風となり中止する。
5月5日。雨
5月8日。これまで同様ローターのスタートに手間取る。慣熟ジャンプ飛行。直線ジャンプ~浅いバンクのS字~フィッシュ・テイル~川の上空へ向かってハイ・ジャンプして戻る~良しいける!。続けて今シーズン初の場周飛行に出る。高度300フィートを約10分間飛行して着陸。ギャラリーはウルトラライトの仲間達。反応は次のごとき。
・ 安心して見ていられた~コマンダー・ジャイロのオーナー
・ 軽いエンジンと良いプロペラでスゴイ性能になる~自家用ライセンシーでパイパー機のオーナー
・ 俺もジャイロをやろうかな~クイックシルバー機のオーナー
5月15、22、29日。 都合悪く飛行場へ行けない。
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ローター始動
入手した金属製ローターは先に記したように、ハンド・スタートが著しく困難だった。 アメリカRotor Flight Dynamics, Inc.のDragon Wings Rotor Bladesと称する物で、直径23フィート、翼弦長7インチ、チップ・ウェイト(翼端おもり)内蔵で、ハブ・バーを含む重量は20キログラム弱。高性能(低抵抗)、軽量、高慣性、 低価格が売り。ハブ・バーにはプレスで押したと思われるプレ・コーニング角が付いていて、ピッチ角度は固定で調節出来ない。明確にそれと分かる「後縁リフレックスが無い」翼型は名称不明ながら、現物と既存の翼型データ資料からNACA / MUNK M-12 とかNACA 2312に酷似している。更に大きな特徴は、ブレードのルート部(付け根)からチップ(翼端)へ向かって「5度弱の捻り上げ」が付いている事だ。
ローター始動困難の原因は次の2点。
1.後縁リフレックスが無い事。
2.捻り上げ角が付いている事。
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<ローター・ブレード同梱2頁の文書の冒頭部 ~ ローター・ヘッドのバイアス・スプリングを50パーセント以上強くしなければ飛んではいけない。高性能ゆえ始動には他のどのローターとも異なる技術が必要とある>

ハンプ・スピード   
ローターの始動は、手でクランクするか又はその為の装置=予備回転(プリ・ローテーション)装置によるのだが、ローターがオートローテーションを維持出来る回転数(これをハンプ・スピード/ハンプ回転数~Hump RPM などと言う)以上に達した所で、ソロリソロリとタキシングを始め、回転速度の上昇に合わせてローター・ディスクの迎角を大きくし、前進速度を増してそれから離陸の為の滑走に移る。実際問題として特にハンド・スタートの場合は、安定した多少の風(毎秒数メートル程度)が有ると大変楽で有り、前進しなくともローターは勢い良く回転してくれ状況によっては離陸滑走出来る。ハンプ・スピードは、ローター・ブレードの種類や、その直径、ピッチ角度などによって異なるが、ベンセン式等一般的には毎分50~60回転程度。
ローター始動の後、座席に乗り込んでシート・ベルトを締める等の手順を考慮すれば、予備回転数は高い程余裕が出来る。程良い風が有る場合は、座席に落ち着いた後、ローターの傾きを変えたりスロットル操作をして、ローターの加速やトラッキングの状況を観察出来る。ところでドラゴン・ローターの場合、パンフレットに記載されている注意書きによれば、最低でも毎分60回転=ハンプ・スピードは1秒に1回転以上となっていたが、無風時、自分には不可能であった。だから程々の所で座席に飛び乗り、前進を始めるのだがその間にローターはオーバー・フラッピングを起こす程に回転が下がってしまう。それでスタミナを貯めながら風を読み、毎秒3メート位の時を狙って始めるのだが、うまくいったりダメだったり。では強風の時はどうかと言うと その様な風は、まず間違いなく乱れていて、手回ししている間に突風を受けると ローターはすぐに暴れ出して始末に負えない。出来の悪い手作りの木製ブレードでもないし、見聞する限りでは好評サクサクのローターであるので、予備回転装置の必要性を痛感した次第。なお、ドラゴン・ローターのパンフレットの中には次の様な記述も有る。
・ このローターをマスターすれば低速飛行が楽しめる。
・ タッチダウン前の滑空距離が延びるので着陸は適切に計画する事。
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<G6-2DK型のローター始動~1971年 ↑>
予備廻転装置不可欠  
1994(平成6)年6月5日。新しい金属ローターを得て、特性が変わった機体のチェックと慣熟の為、数回のジャンプ飛行。ジャイロでは今日まで、この飛行場(阿武隈川河川敷)では絶対にやらなかった近くの橋へ向かっての離陸上昇飛行。余裕を持って橋の手前で旋回して場周飛行へ移る。午後にはクイックシルバー機を追いかけたりして、約20分間の空の散歩を満喫。高度450フィート。
ここに至っての自分の結論。
   ・ 飛行場が広くなった気がする (ウルトラライトのクイックシルバーにとっては今までも十分広かった)。
   ・ ジャイロプレンの操縦技術が急に向上した様に思える(機体の性能に余裕ができた為か)。
   ・ シーソー・ピン1本にぶら下がって飛んでいる事を忘れるな(従来通り)。
   ・ 真夏にも楽しめそうだ。
   ・ 操縦系統を補強しよう。
   ・ ローター・ヘッドのアライメント~特にオフセットの量を再検討しよう。
   ・ ローターの予備廻転装置を真剣に考えよう (アーム・ストロング法=ハンド・スタートは、
       エンジンとパイロットのウォーミング・アップ、そして健康の為に良いと主張してきた)。
   ・ 「遊びと言えども、予備廻転装置は不可欠」これが最大の結論。
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 <G6-VW1500>
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<G6-VW1500>

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趣味の自作航空機 ジャイロプレンの実際 上巻 実践編  10

日本自作航空機協会 第1回フライ・イン

昭和46(1971)年8月13、14、15の3日間 日本自作航空機協会(会長 宮原 旭氏)主催の飛行大会-フライ・インが群馬県館林市の大西飛行場で開催された。
JEAAs46
日本自作航空機協会主催 (JEAA) 第1回フライングイン日程表 (予定)
会場 群馬県館林市大西飛行場 昭和46年8月13日~15日
8月13日 10:00 役員集合 参加者集合 参加機及ぴ出品物搬入
        19:00 夜間(前夜祭)航空映画及びスライド映写
8月14日 10:00 開会挨拶  JEAA会長 宮原 旭
           来賓挨拶  来賓
        11:00 参加者 出品者紹介
        13:00 参加物の説明及ぴ飛行
        19:00 夜間航空映画及スライド映写
8月15日 10:00 参加機による飛行及ぴ出品物の説明
        13:00 参加機による飛行及び出品物の説明 
        16:00 閉会挨拶  JEAA会長 宮原 旭 
 
日本に於ける記念すべき第1回大会 手作り航空機のお祭り。 大会について知ったのはライト航空ニュースによってで もっと前の日時で計画されたのが都合で延期されていてこの時期になったのだが おかげでちょうど航空局のの許可も取れて継続して安定して飛行出来る段階にあった私としては 会員でなくてもOKとの事なので是が非でも参加して飛びたいと思った。 今後の自分の仕事や生活の予定なども含めて検討して 機体を会場へ搬入するついでに関連する資材や機材もこの際 岐阜から館林へ そして福島県郡山市へ運んでしまおうと計画した。 

11日の夕方4:30-6:30 ジャパン・レンタカー から借りた2トンエルフ(¥18、000)に友人同僚(増田 柴田 岩月)の手を借りて積み込んで夜半に出発。


12日の朝早く6:10 大西飛行場に到着。 だれもいなくて分からないままに 格納庫の前に駐車して休んでいるとしばらくしてから現れたのが ここタテバヤシ・エアロのオーナー社長大西勇一氏さんだった。数年前に入間基地の(極東最大?)航空宇宙ショーでパブリカのエンジンを使った自作機で高さ10mのジャンプ飛行したのを遠くから見たことが有るのだが その自作航空機の大先輩大西さんが目の前にいた。 挨拶や自己紹介が済むとトラックの荷台に上がり込んでロープでくくりつけられたままの機体を詳細に見始めた。 そして更にローター・ヘッドをじっくり眺めた後に 氏は以前にジャイロは無動力のグライダーをさんざんやった事と「ジャイロはニュートラルの感覚が掴めない、これを続けていると 何時か命を落とす」との判断で動力飛行はやらなかった等の話が出た(注)。 
ジャイロに関してはそれだけで あとは手作り航空機全般的な話として 型式認定や耐空検査をパスしている実用航空機に比較すれば信頼性がないのだから「長い時間飛ぼうとするな」だった。 なお大会当日の朝には「こんなのが来ているよ」と大会に於ける飛行許可書を手渡してくれた。
館林許可書
大会の実行委員長は石塚忠顕氏(下石神井神社の神主さん)。 来賓?として航空局の高橋検査官 藤原検査官が調布飛行場から飛来して参加機を視察した。 大会役員と共に参加者の集団を引き連れた格好で1機1機見て回って問題点を指摘したり質問したり~私の所では操縦系統の強度や剛性が話題になったと思ったら操縦桿をいきなり左右に大きく強く動かした~手荒い(失礼)洗礼を受けた格好だったが そのようなあれこれを一通り終えると再び機上の人となって翼を大きく振りながら颯爽!と飛び去った。 帰り際に「気を付けてやって下さい」と言い残したと聞いたが 後で関係者との話し合いの席では「どの機体も不合格」との事だった。 もちろん実用機~耐空証明がある航空機の基準で云っているのだが しかしこれは云われるまでもなく私達ホーム・ビルダー自身の問題であって設計や製作技術なりワークマン・シップの向上に努めなければならない。 それでも改修のたびに不要なボルト穴などが増えてそのまま残っていたり 仕上げが悪かったりしていて完成度の低い自分の機体G6-2DKに関しては 会長の宮原旭氏から「まとめる事が大切ですね」とのお言葉!を賜って非常に恐縮 また嬉しくもあった。 一方他のジャイロ愛好者から どこをとって見てもベンセン式とは違うとの声があって これはG6型を進めてきた背景とのからみもあって我が意を得たりと思った。約20機の完成機と未完成機が参加した中で半数近くがジャイロ 大西(固定翼のスバル・プレン) 国分(ジャイロ) 志水(ジャイロ)が動力飛行。3月に水上型ジャイロで右足骨折事故怪我療養中の先輩 坂元さんも杖をついて参加した。

6月にはアメリカの PRA 大会の時期に ケン・ブロックが 特別装備無し道路地図だけを持って 西のカリフォルニア州から東のノースカロライナ州まで約4,000キロのアメリカ大陸横断飛行を成し遂げたニュースがあって みんな度肝を抜かれた一方で こちらは館林の空を2回ばかり飛行したらモウそれで一応計画の全てが無事完了したとの思いに駆られて感無量 力抜けて疲れも出て泣けてしようがなくてトラックの座席で帽子を顔にかけてしばらく寝ていた。彼我の差甚大 比較にならない。
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フライ・インに参加したジャイロ群~館林の格納庫
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G6-2DK
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レンタル・トラックで・・・


大西勇一氏
私が知っている大西さんは 館林飛行場の開拓者 日本の自作航空機の草分けで 早い時期にジャイロを手掛け(パワー飛行に移る前に手を引いた~(注)) パブリカのエンジンを積んだ自作機で入間基地の国際航空ョーで大観衆の前でジャンプ飛行を披露し(私も見ました) スバルの水冷エンジンを積んで伊豆大島往復飛行をやった(もちろんオスミツキ 許可を得て) 更に模型用エンジンを6個使った多発モーター・グライダーも成功させた大先輩です。


注 : 大西さんは「ジャイロプレーンはニュートラルの感覚が掴めない、これを続けていると何時か命を落とす」と言ってました。 事実大西さん及びその頃日本でやっていた方々に一般的だったローターヘッド(Spindle type)にはその様な特性があり 縦(ピッチング)のトリムが取れない~手放し飛行が出来ない~操縦が難しいかなと思われる物で 後年ベンセンは自伝的著書 A Dream of Flight の中で 「 1) No clear neutral feel in the control stick ・・・」と述べています。


カメラはどこだ? ワイドショー11PM 1972.11.15

昭和47年(1972)年11月12日 千葉県八日市場市の干潟 (旧海軍航空隊香取基地) にて。

TV番組11PMの収録があるので 一緒にやりませんかと誘いの電話が有った。 日本で最初にジャイロコプターの公式動力飛行に成功した坂元義篤氏からで 手続き上の問題で多少のやりとりが有って-大先輩と飛べると言うことで-結局トラックをチャーターして出かけた。  しばらく手入れしていなかった機体(G6-2DK)と飛んでいない操縦者。大急ぎで 組立てて整備して、 夜中に出発 徹夜して出かけて当日の早朝に現地近くに到着。およそ1年ぶりの飛行。ほったらかしでほこりが積っていた木製ローターの調子もまずまず、捨てた物では ない。最初の飛行から戻った所で待っていたのはTV局のマイク&カメラ。「高度はどれ位でし たか?」。以前は滑空機の高度計を借りてやっていたのだけど、この時は搭載 してなくて、私の答えがかなり「高め」だったらしい。マイク氏曰く「パイロット には高く感じるのかなー」。これが若造りの自分には こたえた~というか気持の奥に残ったようだ。次に上がった(実は、舞い上がった と言うべきか)時、無意識に「上がれ、上がれ」になってしまったらしい。地上の 景色が流れなくなって、天候のせいか、なにやらまわりの景色も霞んできて、もう いいだろうで降り始める。一緒に飛んでいる筈の他の1機坂元機はどこだ?。良く見ると滑走 路中央部にあって動かない。 ?、ローターがやけに短かく見える。さらに高度を 下げて良く見ると、どーも壊したらしくて皆で片付けようとしているようだ。頃合 を見計らって着陸前のローパス、上昇で何故かエンジンが急に静かになっちゃって 不時着。 タイミングの悪い下手なフレア操作で機体はトータル・ロス。泣きを見たのは言うまでも無いけど燃料を切らしたのが原因で そのような事態を招いたことが問題。 で 大問題は その後、家に戻ってから気付いた事に有った。 フォルクス・ワーゲンの自動車 エンジンを搭載した機体、一寸説明しにくいけど、エンジンはプロペラと反対側の (自動車で言えばクラッチ・ハウジングの)周辺4ヵ所のボルトでローター・マストに対して機体を押すような形で取付けて(ロータックスの場合はエンジンの上又は下の部材に対して載せる又は吊り下げる形)更にプロペラ・エンド1ヵ所を下から支えるマウント方式だった。戻った家で目にとまったのは残って主の帰りを 待っていた「4組のナット」。4ヵ所のマウント・ボルトは取付け穴に単に差込ま れていただけだった、プッシャー式だったので助かった、ゾーッとした。

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当日の坂元機 Ys-5M (8ミリ映画フィルムより)


転倒した機体から立ち上がった所へ真っ先に駆けつけて来たのは離陸に先立って私にアイモ(16mmニュ-ス映画撮影機)を渡した担当者。 大丈夫か?と声をかけてくれた筈と思うけれども 記憶にはっきり残っていることはそのような安否を気遣う言葉ではなくて 「カメラは!、カメラはどこ?」 である。 これは坂元機や何かを空撮して欲しいと預けられたものだが 私は全く忘れてしまっていて飛行中は一度も触れる事はなかった。あ、そうだった、シマッタ 等とぼんやりいる間に忙しく動き回っていた担当者が近くの草むらの中からカメラを拾い上げた。

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同日のG6-2DK 


その後坂元さんと「仲良くヤッテしまいましたね」等とテレた話をしたが これが坂元さんにお会いした3回目で最後となった。坂元さんがスタジオに生出演(私は断った)した番組は11月15日に放映され タイトルは「男の好きなオノリモノ」 担当の司会者は三木鮎郎氏で(先日  )他界されました。ご冥福をお祈り致します~ワイドショー11PM、一時代を画した番組でした。ちなみに三木鮎郎氏は日航ダグラスDC-4でエンジン停止事故(1958 年9月30日)を経験していて その時の模様を航空情報誌のコラム サイド バイ サイドに「私の遭難記」として綴っています。

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 スタジオの坂元氏(右から2人目)


ジャイロの飛行を実際に見た事がなかった家内と子供達はこの日 夫と父の飛行を初めて見て そして事故をも目撃した。 私は11日の夜自宅を出発した折り財布を忘れた事に気が付いて近くから後戻りした。 その事を知っていて 壊れて戻った機体を見て「何か有ると思った」と言った母も今はいない
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以上が G6-2DK型ジャイロプレーン最後の飛行顛末記。 エンジンやプロペラ 他の損傷を受けなかった部材は後年 G6-VW1500型ジャイロプレーンとして復活した。



ホームビルト機 デザイン・コンテスト

社団法人 日本航空整備協会がその機関誌「航空技術」誌1971年11月号に「ホームビルト機 デザインコンテスト」を公表 設計募集した。締め切りは1972(昭和47)年5月末日 募集要項に示された設計の原則は 製作費が安い事 構造が簡単で製作が容易な事 飛びやすく 安全性が十分確認される事など。

およそ10年前に朝日新聞社や本田技研が主催/協賛して行なった「純国産軽飛行機の設計募集」で 第1部一席入選の宮原 旭氏は審査員の1人となった。

やはり アメリカに於けるそれとは異なり 実機ではなくて「図面」によるコンテストでは有ったが「アイデア」を尊重しながらも 「日本の現状を考慮」した 「実現性」の有る機体が入選した。

私は第3部に G7型オートジャイロをもって応募した。G7型は 実績が一応出ていた先のG6-2DKオートジャイロの信頼性向上型。信頼性向上の最大の狙いは 自作木製ローター・ブレードを ベンセン社工場完成品に変更する事。この第3部に集まった応募作品は(ジャイロ、気球、GEM、ハバタキ機、他)等らしかったが幸い部門で1席入選となり航空協会からはメダルをいただいた(メダルの写真で2部と読めるがこれは製作上のミスとの説明が有った)。言うまでもなく 入選を願って図面や書類作成に努力した結果で有ったから 大変嬉しい事だったが後で知った所によれば 審査に耐える(~落書き程度の物で無いという意味)ジャイロの応募作品は僅か3点だったらしく その時はチョット複雑な心境になった。なお この機体G7は全く進捗せず マボロシと消えた。ベンセン社のローター・ブレードを購入する資金がやりくり出来なかった事が その理由。


ついでながら 第1部の1席入選者は 川崎重工勤務の山崎忍氏設計のコンバーチブル単発飛行機。 
          第2部の1席入選作品 川崎重工のオートバイ・エンジンの航空機用改造。
    ちなみに 第3部で1席の私は元 川崎重工社員で有った。

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(財)日本航空協会からの入賞メダル


K7型 ローター・カイト 
昭和47年11月、千葉県八日市場市の干潟飛行場で、ガス欠不時着事故でローター・ブレードを失ったG6-2DK型オートジャイロを再生すべく、新たに製作したローター・ブレードは、ディスク・ローディングを小さくする様にハブ・プレートを長くした。この時、ジンバル・ローター・ヘッドも単純な構造に新しく設計製作したので、これらをテストする事も勘案して、風の強いときに繋溜浮上させて操縦する事を目的とする、折畳み式の軽自動車の屋根に積載して移動することが出来る、回転翼凧(ローター・カイト)K7型を昭和48年(1973年)春に製作して、同年夏の自作航空機協会の第2回フライインに地上展示した。
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 <K7型ローター・カイトの係留浮上~8mm映画フィルムから(1973年秋)>

しかし、この機体の繋溜飛行は同年冬、自宅近くの空き地(2007年現在、整備されて商店街)で1度だけ約5分程だけであった。理由は単純、安定した適当な風を求めて、自動車の屋根に載せてあちらこちらへと出掛けたが、いつも当てが外れて浮上出来なかった。折畳み式とは言っても尾翼など一部の部品を取り外し、ローター・ブレード等と共に屋根へ積み降ろしの作業も案外ほねが折れる作業でつまらないのでヤメた。自動車で曳航すれば飛べるのは分かり切っている。しかしその為には適当な滑走路が必要である。だが滑走路が有れば~気象条件が特に悪く無ければ~エンジンとプロペラを装備して自走すれば良いのだ。風は探し求めて歩くものでは無く、自分で作るべきだ。これがその時点での私の環境に於ける結論である。保管したローター・ブレードは後年G6-VW1500型オートジャイロに使用した。


ジェーン航空機年鑑  
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<「ジェーン航空機年鑑」に掲載された~資料を送ったのはどなた?>
 
EAAフライイン見学  昭和49(1974)年8月 
Experimental Aircraft Association / EAAの年次飛行大会の様子が私達にも伝わって来たのは、ここ数年間の事であったように思う。実際に行って来た方(例えば日本自作航空機協会の皆さん)が雑誌に寄せた記事等を見るに、その内容と規模は日本では想像もつかない様な凄いものらしかった。それで幾らかそそられる事は有っても自ら積極的に行ってみようとは考えなかった。しかしチャンスが巡って来て 昭和49(1974)年8月の初め、第22回大会オシコシ’74の会場(アメリカ ウィスカンシン州オシコシ市ウィットマン飛行場)を徘徊する事になった。同じ機内食の仲間は~仲間と云っては失礼に当たる方もいらっしゃるので言い換えよう~重傷航空機病患者の面々で、記憶にある方々は以下の通り(五十音順)。伊地知さん、河内さん、小山さん、志水さん、白根さん、杉江さん、瀬尾さん、濱尾さん、宮原さん。
EAAフライイン見学の事、「百聞は一見にしかず」とはこのようなケースにぴったり当てはまる。帰国して、撮ってきた8ミリフィルム映画によっても、迫力・雰囲気・臨場感というか、そういったものが再現出来ない、人様に伝える事が出来ない、自分が見てもサッパリ面白くない。実際のところ、雑誌記事や写真で読んだり見たりして記憶に残つていて予備知識が出来ていた物もあって、あぁあれだな、これだなといった調子で終るものが少なくなかった反面、やはり実物を目の前にして、ため息をつく事しばしばであった。

FAAの型式証明を取得済みの2機種の内の一つ、Air & Space 18Aジャイロプレンのジャンプ・スタート(無滑走離陸)はしっかり見届けた。しかし乗り物の動き初めがあのように不連続、いきなりボーンといった感じで浮き上がるのはいかがなものか?。パチンコの類と同じではないか。宇宙ロケットでさえゆっくりゆっくり加速するのだ。ローター・ヘッドはまさしくヘリコプタのそれなので、もうひと踏ん張りしてアンチ・トルク・デバイスを付ければ、すなわちヘリコプタではないか等と思う。ジャイロプレンはヘリコプタとは違うんだよーと存在証明するのも楽では

ないか。
asas2ashead
      <尾部を下げて点検整備:Air & Space 18Aジャイロプレン及びローター・ヘッド>

国立国会図書館 「話の種」  当時の資料閲覧利用料 
昭和51年(1976年)6月。時間が取れて、いつか一度はと考えていた国立国会図書館へ行った。昔、勤務先の図書室で見た資料の中に、参考文献として引用されていて、そこでは見られなかった気がかりな物がいくつか有った。科学技術文献センターとか称する機関に問い合わせたりした事も有ったのだが、ここなら有るかもしれない。もしも目当てのものに出くわさなくても、国民の一人!として実績?を残して置こう、「話の種」にはなるだろうってな殊勝な心がけでワザワザ上京。あまり良く覚えていないが 広い階段を上って?大きな玄関を通って、いざ権利を行使せんと意気込む。しかし要領を得なくて時間ばかりかかって収穫は少ない。今は検索が効率的にやれるんではないかなと推定するのだが。一部の方々から頂く質問の中に、「そのものズバリのジャイロプレンの(設計に関する)参考書は無いか」というのが有って、実は私も<最新の><手頃な>参考書が欲しくて、その様なものが有れば真っ先に自分が欲しい。とはいうものの、ここは宝庫、役立つものが絶対有る!と睨んでいる。ともあれ半日かかって見られた主なものは第2次世界大戦末期にドイツ軍が潜水艦に搭載、曳航して

観測や見張り等に使用した回転翼凧 Fa-330に関するPB レポート等のマイクロフィルム/マイクロフィッシュで、コピーと郵送サービスを依頼した。
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「話の種」は昭和51年当時の資料閲覧利用料。 

¥2万円也の記入ミスではない、¥20円!~戸惑っていると担当嬢がニコニコしながら「その通りです」と言った。むろん、記入ミスであれば、それこそ大いに戸惑った事疑いなし。今はどーなっているだろう?


国立国会図書館 2  Wings of Tomorrow シエルバ自伝の和訳本

1923年1月にC-4型によってオートジャイロの飛行を成功させた、その発明者シエルバの自伝的著作は、1931(昭和6)年に著された " Wings of Tomorrow "で その中の一部の記述は他の書物等の中に何ケ所か引用されていたり、文書によってはシエルバの " WOT " と略して引き合いに出されていたりする。自分は2000年代なってから " Wings of Tomorrow " の邦訳版が有るらしい事が分かって驚いた。 しかも早い事には、原著が出版された翌年1932(昭和7)年で、しかもそれは国立国会図書館に行けば閲覧出来るらしい。これは2002(平成14)年7月に発刊された玉手榮治氏の著作“陸軍カ号観測機 [幻のオートジャイロ開発物語]”によって知り、早速と言うよりは慌てて「Yahoo」から「国会図書館」を検索した。結果は下記の通り。国立国会図書館へはかつて一度行った事があるが、もう一度行こう。
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書誌情報    和図書(1/1件目)

請求記号    606-445
タイトル     明日の航空機オートヂヤイロの原理と其の作り方
責任表示    C.J.D.シエルバ著
責任表示    山田徹訳
出版地      東京
出版者      文教科学協会∥ブンキョウ カガク キョウカイ
出版年      昭和7
形態       338p 図版 ; 20cm
全国書誌番号  47032825
個人著者標目  Cierva,Juan de la (1895-1936)
個人著者標目  山田, 徹 ∥ヤマダ,トオル
NDC(6) 538
本文の言語コード jpn: 日本語
書誌ID        000000786164

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趣味の自作航空機 ジャイロプレンの実際 上巻 実践編  9


航空情報誌

出産に備えて里帰り&帰省。 雪でダイヤが乱れて一時上野駅で足止めをさせられたがこの間にガード近くの書店で航空情報誌(No.283/1971年4月号)を入手。 石川昭氏による「 マイホームで生まれたホームビルト機 アンタレス G6-2DK 」が掲載されていた。特集記事は「航空史上の名機100機」カラー折込図は 「川崎 P-2J対潜水艦哨戒機」。上野駅から郡山駅までの車中は子供2人の面倒見そっちのけで読んで眺めて退屈しなかった。

AIREVIW283
          航空情報 No.283 1971 April


710314  3組目のローター・ブレード

      1月下旬から始めた製作が最終工程の塗装作業に入って・・・

710320     ローター・バランス
710321 (日)  ローター搬出 回転テスト エンジン40mm下げ 航空局書類準備
710322     航空局宛て書類 発送
710328 (日)  地上滑走試験 1~2m
710404 (日)  脚上げ改修
710406     長女誕生
710411 (日) ジャンプ飛行
710418 (日) ジャンプ飛行

710424 (土) 場周飛行にかかわる許可書着

710425 (日) 初の場周飛行


4月24日 (土) 場周飛行にかかわる許可書着

4月25日 (日) 初の場周飛行

8月13、14、15日  日本自作航空機協会 第1回フライ・インに参加して飛行


飛んで見せた/1千万円相当の広告

3セット目のローターは 以前のものに比較して 仕上がり具合も悪くないし また大変良い結果も合わせ持っていて 滑走路に出した当初から 殆ど問題が無かった。 このブレードは 国産の材料を使用した事と 回転方向が上から見てCW(クロックワイズ)で有る事以外は 宗旨変えして ベンセン式の構造で作ったもの。 即ち 翼型は Bensen G2 で薄いテーパー金属桁はブレード断面の最下部に配置して これは木製桁に木ネジで固定した。
トリムタブを曲げて 何回か細かくトラッキング調整をやった他は 初めから順調 ジャンプ飛行訓練がどんどん進んだ。次第に話が伝わったようで 多くの方々が見学に来られて また地元報道関係からの問い合わせや取材があった。見学者に関しては わざわざ遠方から出掛けて来て 見てくださるとの事で 大変嬉しくは有ったが 付随して 会社と自衛隊に前もって入門者名簿を出して置かなければいけないという事情が出来たりして 時に忙しい思いもした。 例えば4月12日には **市民連合とか名乗る男女計9人のグループがやって来て守衛と押し問答の末 3人が会社敷地内に入って座り込み 駆けつけた警察署員に逮捕されるといった事件が有ったりした~そのような時節でもあったからである。社内報担当者とのやりとりはともかく 外部報道関係は殆どが電話による取材で それへの応対が何回にもなると 職場内で勤務時間中の事でもあるので 何やら ちょっと気まずくなったりした。 テレビ取材も ラジオ番組のスタジオへ来て話をとの依頼も またデパートでの展示企画も丁重にお断りした。 一方 自分だけの気持ちで断る事も出来なく しかし面白いと思ったのは ある新聞社の写真取材で 次のような次第。 

4月13日  勤務先の庶務課長から話があった。 地元のある新聞社が 「1千万円の広告を出してやる」から取材させて欲しいと言っている。 会社は了とするので 君も応じてやってくれ。 つまり 新聞社はかなりのスペースの記事を予定していて それにはもちろん会社の名前も出る。 会社に取っては1千万円相当の広告を掲載するのと同じ効果が有りますよ~だから取材させて下さいと 丁寧(!)に会社に対して申し込んで来た訳。

昭和46年4月18日格納庫から始まった取材は 次に滑走路へ移動。 かなり躊躇の横風が有って 記者さんから「御自分で判断して 絶対無理をしないで」なんて何回も念を押されたりして しかし なにしろ頭には「1千万円云々」があるので(?) 頑張って数回のジャンプ飛行。  始めは滑走路の両サイドで狙っていた2人のカメラマンは 何時のまにかセンターラインに近い所まで寄って来ていて 気が付いて見れば 足を斜め前後に広げ 
腰を低く沈めてカメラをかまえている2人の中間を狙って 飛び越しジャンプして降りる様な相当キワドイ事をやっていた。 なかば忘れかけた頃 6月に入ってから出た結果は 「自作機で飛んで見せた!」と題する半ページ程の紙面。 1千万円相当か否か 自分には分からない。

cyuniti2
cyuniti1

cyuniti1

写真とキャプションは中日新聞 昭和46年6月7日夕刊より (注)

注 : 平成8年10月6日 石川県千里浜で 小坂繁也氏から頂いた  
    鮮明な新聞コピーからスキャンした。


710319 岐阜基地 飛行場使用許可申請
710322 航空局 飛行許可申請書発送

710421 航空法第28条第3項 許可書(9日付け)着
710424 航空法第11条但し書き 同93条但し書き 許可書(9日付け)着


周回飛行 First sustained flight

昭和46(1971)年4月25日(日) 初の周回飛行 13分 (11:30-11:45)。
 昨日帰宅したら待望の許可書(9日付け)が届いていた。 高度1000 フィート(約300メートル)以下での場内飛行が認められたのである。 今 周回飛行に出るのに不安は無いやれる 出来る 明日は必ず素晴らしい日になるだろう 絶対やるのだ。この数年間にあったあれこれを思い出しながら 明日の手順やお天気の事を考えながら比較的落ち着いて眠りに就いた。
25日 大変穏やかな良い天気で最近では珍しく風も正対している。 今日は中日航空連盟のグライダー部の訓練も会社の模型クラブの飛行もないようだ。 地上支援仲間は志水さんだけ。 ウォーミングアップのジャンプ飛行を2度やる いつもと変わりないOKだ。昨夜の心づもりでは ここで打合わせと点検をやってそれから上空へ上がる計画だった。しかし非常に調子が良い 全てが”GO”を示している。 時は今! 出発点へ戻って滑走開始 フルパワー40mphで離陸 機首を押さえてしばらく加速を待って上昇開始 速度 45mphと姿勢を一定に保つように 特に40mphを切らないように注意を注ぐ。 滑走路の端を過ぎた さあ続けて行くのだ上がるのだ。 メインの滑走路上にかからないようにコースを少し右へ取って岐阜タワーの位置を通過。 中で人が何人か立ち上がって見上げているようだ。 高度約150m(100と200の目盛りの中間点)に達する。 スロットルを少し絞って水平飛行 40mph。 広い飛行場の端はずっと先にあるが計画に従って引き返えす。  45mphに調整してパワーを入れ直して右へ180度旋回 バンクを付けて これは必要無い事が頭では分かっていたのだが グライダーの時の癖が出て無意識にペダルを一緒に踏んで しかもその量が過大だったようで バンクが意図した以上に深くなってクルリッと180度以上も回頭してしまった。 アレッ?!と思ってバンクを戻す 少しダイブ気味で速度計の針は計器面の真下50mphを通り越して60mphへ近づいて行く。 スロットルを戻しながら滑走路上を引き返すべくコースを左へ取って 対気速度40-45mph 高度150mを保つ様に操作する。 滑走路の端 出発点 ピスト上空を過ぎて飛行場の端の近くに来て左へ180度緩旋回して向き直る。 岐阜基地全体が見渡せる所 ここなら仮にエンジンが不調になってもすぐ目の前の滑走路端に向かって降りられる。 何しろフルパワーに近い状態で連続運転するのは初めてなのだ。 ジャンプ飛行を繰り返している時は ほんの僅か30秒もないだろう。 そしてここで高度を維持する様にして飛行場を飛び出さない範囲で メインの滑走路にかからない範囲でグライダーの斜面ソアリングみたいに左へ右への細長い8の字を書くような飛行を繰り返して慣熟する。 バンク角は最大15度位 ラダーの操作は要らない ベンセンのマニュアルにある通りだ。 ふと見ると基地建物の方から自動車が1台走ってきて旧滑走路の端で停止した。 高度を100m位まで下げながら滑走路上を進み自動車の近くで旋回してまた戻る。旗を立てた自動車はこちらピット側へ向かって動き出した。フォローミー・カー(ジープ)らしくちょっと不安。と言うのは今日上がる周回飛行に出るとは誰にも言ってないのだ。 そろそろ降りよう。 50mに降りて着陸の為の進入を開始する 。 おかしくないタッチダウン。 やった!。 凡そ15分の飛行だった。 降りてみればやはりで まさか”フォロー・ミー!”はなかったが状況・事情の説明を聞きに安否を問いに来たのである。 ”滑走路を行ったり来たりしていると思ったら 遂にやりましたね 飛びましたね” と言ってくれた。 全体の計画書をあらかじめ提出して許可を得ているとはいっても やはり直前に”そろそろ上がるかもしれません”位の話はしておくべきであった。 さもないと 間違って不用意に上昇してしまったのか 引き返すすべも知らないのではないか あらぬ方向へ行きはしないか 敷地を飛び出さないか 着陸は元の滑走路にちゃんと出来るのか? 等など不要な心配をかける。 企業がチームを組んで完成させた実用機の場合も初飛行となれば相応の特別な体制を取って事にあたる。 当直の方にとっては何もせずに放っておくわけには行かないのだ。 幸い事故は起きなかったが非日常が目の前であった。 彼らには報告の義務が有るのだ。 先程の実際の飛行は計画に沿ったものであり 全く不具合は無かった正常だった事を説明した。 既に貰っている基地の許可書と併せて昨日届いたばかりの航空局の許可書も提示した。 前述のように支援の志水さんにも話さなかった訳だからジャンプ飛行から戻って「また次のジャンプかと思ったら まっすぐ上昇し続けるのを見て そのまま行ってしまうのではないか そうなったら 何か有ったらどうしようかと思った」 「まもなく引き返して来たので安心した」と言った。 既に高く飛んでいて(他ででは有るが)周回飛行をやった人がこうなのである。もっとも自分の手痛い体験に照らしての心配もあり得るわけだが。 休憩して もう一度上がろうかとも考えたが自分も緊張が解けていたし 機体点検を十分にやらずに続けて飛行するのは無謀に過ぎる 今日はここまでとした。 正午を回っていて撤収して志水さんと那加の町でささやかにお祝いの昼食 カツ丼だったような記憶。早く帰宅して目下やもめ暮らしだったが ビールの味が格別だった事は言うまでもない。
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岐阜タワーからのライトガンの記憶はない。
記録の片隅に空中操作容易 計器に振れなし キャビンのノーズ部に振れ有り等とある。
近くにある古巣の独身寮で出掛けずにいた方々は軽飛行機ともヘリコプターともつかぬ聞き慣れない音に気がついて目撃した事を後で教えてくれた。
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これ以前の日本の公式周回飛行は凡そ5年前 昭和41(1966)年 坂元義篤氏の本田
エアポート(桶川)に於ける事例があった。VWエンジン機としては日本初。
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       岐阜飛行場 左から主滑走路 旧滑走路 誘導路

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 某部長宅の床の間のマック

ジャイロプレンは揚抗比が大変悪い 抵抗が大きい 従って小さく軽い割には大きな推力がないと良く飛べない。ベンセンのジャイロコプタも MaCULLOCH 72馬力ドローン・エンジン(標的機 drone plane用)と48インチ径プロペラの組み合わせで大成功した。当時日本で このエンジンを入手するのは非常に困難であって 殆どがフォルクスワーゲンの自動車エンジンで模索していたが なかなかうまく行かない 浮上出来なかった。 マッカラーは超軽量大馬力 かのジェームズ・ボンドもこれを搭載したので悪漢どものヘリコプターに勝てたのだ。 ジャイロはマックじゃなければ---。
自分のジャイロが一応成功した話が勤務先の中に広がった結果 思いがけない事がいろいろ起こった。 当初誰に質問しても殆ど分からなかった事に具体的に参考書と章(「Gessow」の8章)を示してアドバイスしてくれた若い航空力学専門の方。 米国の友人から貰ったとか言う「Stits Playboy」機の製作図面(プラン)一式をプレゼントしてくれた方。 なんと初期のベンセン・ジャイログライダB-7(メインフレームがアルミ合金丸パイプ製でジャイロコプタ B-7Mのベースになった)の一枚の小さな図面を差し上げますと言って渡してくれた方も現れた。 
B7GGベンセン・ジャイログライダB-7

社員食堂で私を待ち受けていて以前にやった自作の動力付きの乗り物の写真を見せてくれた方。 そのようないろいろが有っていろいろな話題が出た中で「外国では標的機のエンジンが使用されています云々」と私が話するうちに 会社で以前に自衛隊がらみ(?)の仕事で無人の標的機(「KAQ」と記憶する)を手がけた事を教えてくれた方が 使用したエンジンは「何だったかなー 忘れちゃった えーと」。 「マッカラーでは?」と私。 「そーだ マックだ マッカラーだ」となった。 じゃあどこかに現物が残っているのではないかと手を尽くして探した。更に出てきた噂話は次のごときであった。 "某部長の家の床の間には件のエンジンがデーン!と飾ってある"。が結局分からず仕舞い。しかしマニュアルは有ってその写しはゲット出来た。 坂元さんへ差し上げたのがそれで どういう訳か当時の私はそれ以上マックには関心が無くて控えは残っていない。


マッカラー・エンジンのマニュアル

昭和46年5月21日 大先輩 坂元義篤氏を入院中の病院 (横浜市金沢区 金沢病院) にお見舞いかたがた訪ねた。 初めてお会いする坂元さんは松葉杖で歩ける状態であり意気軒昂であった。 ジャイロ談義があって私がおみやげに持参したマッカラー・エンジンのマニュアルを 「お持ちですか?」 と差し出すと 「何冊有っても良い」 という様な事を言って半ばひったくるように取って しかし実にうれしそうに受けてくれた。 次にお会いしたのは群馬県館林飛行場に於ける大会の時で 松葉杖は1本になっていたと記憶する。 記念すべき日本に於ける最初の自作航空機のイベントに ご自分の機体を持って参加出来なかった事 心中を察するに全くお気の毒であった。


S48 5 27 坂元義篤氏 茨城県霞が浦で事故死


エンジン・プロペラ騒音測定

 昭和46(1971)年5月29日 会社から借用した指示騒音計で簡単な騒音測定を実施した。計画が不十分であった事と人手の関係で 地上における非走行時の物だが 記録に残っているデータは次の通り。

 場所 : グライダー格納庫前広場

 供試機体 : G6-2DK オートジャイロ  
          エンジン VW1500cc (サイレンサー無し)  
          プロペラ 直径 1250 mm  P/D 0.45 (減速無し)

 計測器 : 指示騒音計 Bruel Kjaer

 計測データ : A 特性 にて

         バックグラウンド・ノイズ       43 デシベル

         エンジン回転数 1,000 rpm   93 デシベル
         エンジン回転数 2,000 rpm  100 デシベル


小野田清さん

昭和46年5月30日 汗ばむ様な素晴らしく良いお天気。 
小野田清さんが奥さんと幼い子供さんを連れて 航空自衛隊岐阜基地へ見学に来ました。

G6-2DKジャイロでジャンプ飛行を20回、その後高度約300mまでの23分間の周回飛行。パワーが何となく無くなった様な感じがあって 降りてみたらエンジンのプーリー・エンド(プロペラハブ部)に裸の状態で挿入してあったスラストベアリングが焼けていました。クランクシャフトのエンドプレイの不足が直接の原因ですが根本的には不静定な構成が問題で~熱膨張の違いなどの為クランクシャフト前後のベアリングがクランクケースを胴締め状態にする~しばらく後の飛行大会の折りに本田技研勤務の坂田守先輩からも指摘された事です。

小野田さんは 実飛行もさることながら 場所について非常に羨ましがっていました。まったく無理からぬ事でしたが その後大変な苦労を重ねて実績を積み上げて日本のトップ・フライヤーになりました。
以下の写真等は全て小野田さん提供。
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 岐阜飛行場にて小野田夫妻と志水さん(右)。 後でライバルになった?。
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ベンセン金属ローター マッカラー・エンジン 純正プロペラ ケン・ブロック製シート・タンク等々 当時としては贅沢な構成の小野田機。工作や仕上げも丁寧(浜松競艇駐車場?)。
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竜ヶ崎飛行場の使用が認められ 米国留学の石川保教官(左)からベンセン直伝の特訓を受けて開花した(竜ヶ崎飛行場)。
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ベンセンのジンバルヘッドを入手していた小野田さんは その詳細なスケッチを送ってくれて それで縦方向(ピッチング)のオフセットの値が1インチ(約25mm)で有る事が分かりました。これを活用したのは大分後になってからの事です。


微妙&明確な変化

昭和46(1971)年4月25日 初の場周飛行達成を境にして 回りからの反応がこれまでとは微妙に あるいは明確に変わってきた。

4月30日 航空自衛隊岐阜基地の中の実験航空隊から電話で問い合わせが有った。 
従来無かった事であるが 飛行速度は? 旋回半径は? 主滑走路と旧滑走路の間で旋回出来るか? 通信手段は有るか? 今後の飛行計画は? 等の質問であった。 
一方 基地宛に少し前に出した申請に対して 5月初めの連休での滑走路使用と飛行は何か事情が有るらしくて 難しいとの見通しを伝えて来た。 なんとかお願いします~遠方からの見学者の予定も有るので~とかのやりとりが有って 結局5月1日に許可が下りた。

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   航空自衛隊岐阜基地 ( May 1971 )
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     上の赤い点はナイキJのベース(?)

5月2日 この日 中航連のグライダー訓練が始まった。 見学者4人。 ジャンプ飛行と高度約280m13分の飛行。 運動場に自機の影を認めた。 影で見るローターの回転は遅くゆっくりまわっている様に見える。 頭の上で回っているローターの先端は 目を上げて少し前を見れば一本の円弧を描いている様にしか見えない。 基地の消防車に動きが有った事を上空から確認した。 その意味は分からなかったが早く降りる事にして その後は慣熟の為のジャンプ飛行に専念した。
5月3日 三菱重工からの3人(中航連グライダー関係者と記憶する)が 何かとお手伝いしてくれた。 ジャンプ飛行と 高度約200m7分の飛行。

5月9日 急遽準備したトランシーバー(安くない 大きな出費)をテスト。 ノイズの問題でジャイロとの交信は困難。 1台を岐阜タワーに預けた。 これでグライダー・ピスト(基地内の西側)とジャイロ・ピスト(東側)そしてタワーとの連絡が密になった。 
ジャンプ飛行と高度約400m15分の飛行。 ジャンプ飛行と高度約200m7分の飛行。
プロペラ回転数3600 対気速度45~50mphで 上昇率約2m/s。 
少しダイブして65mphを示現。 
5月16日 勤務先のグライダー部の訓練と模型部のライトプレーン大会があって タワーから呼び出しが有り No.3スポットの東側でのみ飛行するよう指示された。 ジャンプ飛行と高度約500m20分の飛行。上昇風のせいか? 上昇率2.7m/sを示現。
プロペラ回転数2800 対気速度40~45mphで降下率2~3m/s。
この日バイク2台が滑走路に入り込んで突っ走って グライダーが発航出来ない騒ぎも
有った。 
5月26日 重心と姿勢調整用のノーズ・ウェイトを4.7kgから2kgに減らした。

5月30日  ジャンプ飛行と高度約300m23分の飛行。 パワーが無くなった様な気がして降りて点検したら クランク・シャフトのスラスト・ベアリングが焼けていた。 基地のジープがやって来て私達ジャイロのグループとラジコン模型飛行機のグループへそれぞれ注意を喚起して戻った。 この日小野田清氏が家族を連れてやって来た。

6月に入って 模型部との調整が行われ 模型飛行機は午前中のみ その間ジャイロはジャンプ飛行だけ 周回飛行は午後とした。 模型部の長はその内容で基地の了解を得たと聞いた。 また職制を通じて会社から質問があった。  会社に対して基地から 「救難体制に関して協力の依頼」があったとの事で ジャイロの今後の予定を問われたのである。 何時までもやるつもりは無いけれど8月に飛行大会が予定されているのでその時期までは頑張りたいというのが その当時の心づもりだったので そのように返事した。


6月の日曜日は残念ながら 殆ど天候不順で飛び上がるには不適 滑走路に出てもジャンプ飛行に終始した。 6日は雨で 明石からはるばる訪ねて下さった高専の先生と4人の生徒さんへは格納庫の中での応対に終わり申し訳ない気がした。 
13日も雨。 20日  27日 小雨の合間をぬって所々水たまりがある滑走路でジャンプ飛行。

6月22日 大阪航空局へ出向いた。 次回分の申請を兼ねた報告が目的。これまでの飛行記録8mm映画フィルムと映写機を持参 凡そ10人の担当官が見てくれた。


はた迷惑 ~ そろそろ潮時

手作りの航空機で飛ぶという夢が実現出来て ジャイロプレーンを選択した一つの大きな理由~オフセット・ジンバルヘッドの自動安定機能もそこそこに確認出来たので 目的は一応達成した事になり 個人プロジェクトも最終段階。 ちかぢか予定されている自作航空機の第1回フライインに参加して飛ぶことが出来れば それはボーナスみたいなので 怪しげな手作りの信頼性に欠ける機体で何時までもやる気はさらさらない。 公式に飛行する為に必要な 会社 航空自衛隊 および 航空局関係の手続きにとられる手間暇がバカにならない。 使える滑走路が無い方々からみたら 贅沢な話であろうが自分に取っては うんざり 全く疲れる事。 また酒の席ではあったが率直な本音も聞けて そろそろ潮時 まとめの時期到来と 自他共に(?)判断した。


昭和46(1971)年7月1日 新人歓迎会。 上層幹部のある方から「-良くやった-新聞に出たな-しかし もう止めてくれ はた迷惑だ-」と直接言われてしまった。 会社に対して 基地からの要請が有ったり 休日に社外の入門者が増えた事などが 幹部の会議で取り上げられ それなりの対応をしなければならなかったのがその背景であった。
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7月11日 作り直した新しいFRPキャビンで 気分一新。 慣熟ジャンプ飛行の繰り返し。

7月18日 雷雨。 ジャンプ飛行。 
        伊藤恒夫さんのジャイログライダーとローター接触事故。
       ハンガー前に転がっていた旧キャビン 伊藤さんが欲しがったので差し上げた。


危機一髪 トリムタブ

昭和46年7月18日 時折雷雨が有った日。 ロープ曳航訓練の伊藤恒男氏のジャイログライダー(*)が着地後出発点に戻る途中の出来事。 その時は曳航されてUターンした後すぐに滑走路の中央部へ行かないで端の方を走って来たので 危ないと思うまもなく 滑走路脇に駐機していたG6のすぐ脇を走り去った。 瞬間するどいピーンという音がして小さな何かが数メートル飛び上がるのが見えて それはすぐ地上にひらひら舞い降りてきた。 ローターブレードのトリムタブで私の機体のものであった。 まだ勢いよく回っていた伊藤機のローターが 回転しないで風のままにふらふら動いていた私の機体の一方のローターブレードに接触した結果だった。 点検してみるとタブをブレードの後縁に組み付けるリベットは全てブレードに残っていて その周辺とタブが多少変形している程度だった。 全くきわどい位置関係とタイミングでタブが剥ぎ取られたわけだ。 次の休日25日はタブ関係の補修をしたり整備をしたりして過ごしたので 結局この18日が岐阜における最後の飛行となった。 それにしても危機一髪であった。 状況によっては間近に迫ったフライインに参加出来ない事にもなりかねなかった 忘れがたいローター接触事故である。


(*) 独特の自設計自作機 メインフレームは鋼管の溶接構造 ローターヘッドも全く独特の形式  
操縦装置はベンセンオリジナルの様な吊り下げ方式。 動きの反転装置は無かったので 試乗したF104のパイロットも始めはとまどったがすぐに慣れた-さすが!

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中:伊藤恒男氏 / 右:吉田圭助氏 (当時 F104 等のパイロット 兼教官 後 **司令)


航空写真家のお父さん

昭和46(1971)年7月末(あるいは8月初め?)知らない年輩の男性が青年を連れて私の職場へやって来た。 服装(制服)から年輩の方は自分と同じく ここの従業員で有る事は分かった。 珍しい事ではなくて 例えば自分から出た図面なり文書に疑義があれば 又は生産技術上の問題があれば 関連する他の部門の方が(時折協力会社の担当者を連れて)直接やって来て質問したりクレーム?をぶつけてくる。 有ってはならない事なのだが 単純ミス 誤記の類を指摘してくれる場合もあり 協議?の結果正式文書で変更改善あるいは訂正依頼が上がってくる。 結果善処?した技術文書(図面や手順書など)を流す訳である。
しかしこの時は思いもかけない話を持ってきた。 青年は航空写真家で 取材させて欲しいよろしく頼みますとの内容だった(私の記憶違いで あるいは 青年はその後で現れたのかも知れない)。 時間を調整 昼休みだったか終業後だったかに工場敷地の外れにあるグライダーの格納庫へ案内して 目下好調さくさく?のマイ・ジャイロを見て頂いた。 自作航空機協会の第1回飛行大会を目前に控えて 全国各地の航空機ホーム・ビルダーを取材してまわっている最中だそうで 日程の都合がつかなくて滑走路へ出して飛んで見せる事は出来なかった。 
現在(2001年)自家用のモーター・グライダーを翔って広い分野で大活躍の航空ライター&写真家 瀬尾 央 氏の若き日のひとこまであり 年輩の方は父君であった。このお父さんは8月末にもう一度私の所へ来られた。 ご子息が撮った写真がいっぱい載ったアサヒグラフ(*)をわざわざ届けに来て下さったのである。
 
この9月10日号の表紙は瀬尾氏がG6-2DKの機首にセットしたニコンをエア・レリーズで操作して撮影した「自家製オートジャイロで空中ドライブ」の図。 当初モーター・ドライブを使う計画だったのだが 何かの
都合で取り止めになって 離着陸ごとに手で巻き上げて撮影 この大会では2度しか上がらなかったので撮影枚数は2枚。 キャビンの機首部に振動が有ったので私はカメラ振れが心配でシャッター・スピードが気がかり。 瀬尾氏の説明は印刷原稿用ポジ・カラー・フィルムなので感度がネガ・フィルムより低い ギリギリのスピードにセットしたとの事だった。1枚が表紙に掲載される結果となって驚き まったく嬉しい晴れがましい出来事でもあった。 
写真家としてデビュー間もなかった頃の事と想像するのだが 息子さんが全力投入して出した結果(仕事)を見たお父さんは どの様な気持ちで有ったろうか?。昭和48(1973)年夏 第2回目の飛行大会が開催される事になったが 残念ながらこの頃の私は飛べる環境には無かった。 しかし瀬尾カメラマンは郡山市の拙宅を訪ねてくれて まだ実績のない K7型 ローター・カイト を軽自動車の屋根に積んで深夜出発の様子を取材された。

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1971年夏 館林飛行場上空
 「自家製オートジャイロで空中ドライブ」

カメラ・セット : 瀬尾 央 氏
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1973年夏 館林飛行場にて 私の家族

 手前「報道」関係者 愛用のニコン 「PRESS」の腕章 
 長~い ツバのEAAの帽子 瀬尾 央 氏
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*注 : アサヒグラフ誌/関東大震災があった大正12(1923)年1月創刊 
       平成12(2000)年10月13日号で休刊

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記録写真で区切り

昭和46(1971)年7月25日 ローターブレード・トリムタブ補修 ローターヘッド・カウリング(フェアリング)取付(角隠し? 本来はローターヘッド部位の保護と抵抗削減が目的なれど 自分の場合はアラ隠し)。

家族全員をグライダー部の格納庫へ連れていって 最初で最後の記録写真を撮って区切りとした。 

この後の日々は時間があれば 8月半ばに迫った自作航空機第1回フライング・インでの飛行に向けて整備と運搬準備に全力投入。

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ヘッド・カウリング

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family hanger 1

長男 長女 家内 次男  最初で最後の 格納庫に於ける家族の写真


ANVOで終了報告 

[ ANVO=Accept No Verbal Orders ~ 口頭連絡を避けよ=連絡票 ]

昭和46(1971年)7月31日 勤務先の中で使用されていた連絡票 通称 ” アンボ ” でお世話になった各方面へ 終了報告をした。振り返って見れば小さなジャイロプレーンは確かに狭い部屋の中で形にする事が出来た。
しかしその少し前の段階から 最終的にそこそこの飛行実績を残すまでの間には 実に多くの方々から直接間接 そして有形無形の御協力と御支援を頂いた。 さもなくば実物大模型に終わった可能性を否定出来ない。 周辺環境条件に恵まれた事と共に この上なくラッキーであった。 深謝。


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オートジャイロ 試験終了報告連絡票


その後 G6-2DKオートジャイロは この年8月半ばに群馬県館林市の大西飛行場で開催された 自作航空機協会主催の第1回フライインに参加して飛行。
翌年11月 千葉県八日市場市の干潟飛行場で先輩 坂元義篤 氏と一緒に飛ぶ機会に恵まれた (新東京国際空港 NRT は未開港)。しかし燃料を切らして不時着に失敗 ローター・ブレードと主脚等を壊して 試作1号機の最後の飛行となった。


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趣味の自作航空機 ジャイロプレンの実際 上巻 実践編  8


運輸省航空局 (2001年 国土交通省)

手放さずに少しずつやっていたG6型機に関わる飛行許可申請書が出張先の宿でようやくまとまり 戸塚で投函した。 連絡が有り12月4日13:30に来て下さいになって資料を持てるだけ持って名古屋駅から新幹線ひかりで上京。 東京霞ヶ関 合同庁舎第3号館 運輸省航空局へ出向く。 関係する技術部検査課 乗員課 航務課の担当者が集まったところで経過と現状を率直に説明。 航務課:自衛隊の基地の中で有れば関知しないとの説明が有って担当の方はすぐ退席された。 検査課/乗員課:それぞれ機体及び操縦に関わる別部門なので書類を別に出して欲しいと 言うことで 了解を得てコピーをお願いして処理。
討議の中で出た許可条件は地上高度20m以下 滑走路上直線 有視界飛行で有った。
既に浮上には成功している 次は段階的に飛行距離を伸ばしながら慣熟訓練を重ね 浅いバンク角による蛇行飛行も計画に有るが 滑走路から外れる様ないわゆる 旋回飛行は今は計画外で やりませんから条件から”直線”は外して欲しい旨要望して14:40退出した。
9日と10日に乗員課分は8日付 検査課分は9日付で許可になったと電話連絡があって 20日に許可書が届いた。付されていた条件は4項目で 1項は”滑走路上のみで運航する事”他の3項目は気象条件に関するもの。 許可者は運輸大臣 橋本登美三郎 
となっていた。

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航空局関係の許可は岐阜飛行場(航空自衛隊岐阜基地)に関して3回申請し 2回目以降は管轄が大阪航空局に移り 93条但し書きに関しては名古屋空港事務所が窓口になり 許可者はそれぞれの局長または所長になった。 
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2回目の申請は周回飛行を目的とした内容で 大阪で受付けるのは初めてなので説明に来て欲しいとの連絡があって出向いた。自分としてやれる自信が有ることの背景としてグライダー(滑空機)での実績やこれまでにやったジャンプ飛行訓練の記録などを提示して説明した。 やってみなければ分からない事が多いといった話題の中にエンジン停止時の滑空比や沈下率の事が有った。 具体的な数字を上げての比較説明は出来なかったが少し前まで現役だったグライダーに関してダイブ・ブレーキ全開時は急角度の滑空角になる云々と説明した。 また 訓練記録の中に許可期間が切れている時期にかなり高くジャンプ飛行した記録なども含まれていて咎められて始末書を書いた。 しかし航空自衛隊岐阜基地から許可を得ている事に関して”基地が 良い と言っている OK してるのですね”と何度も確認の話が出て 何とか許可は下りるだろうとの感触を得て帰途についた。 
後日届いた許可書にあった条件は高度1,000フィート(約300メートル)以下であった。周回飛行を達成した後の申請時(3回目)には 高度2,000フィート(約600メートル)までを希望し 許可を得るべく実績を示す8ミリ映画フィルムと映写機を持って大阪航空局へ出向いた。 残念ながら申請書を訂正押印して引き返えす結果となり 帰り道は映写機の重さがこたえた。
最終的な許可条件文面は 申請通り 高度1,000フィート以下 飛行場内飛行 許可期間 6ヶ月などであった。


46年の夏に行なわれた飛行大会 館林の大西飛行場については東京航空局が管轄であり日本自作航空機協会経由で申請し 許可条件は 昼間有視界 高度1,000フィート以下 人・家屋上空不可 期間4日等。


G6惨め

12月6日 航空局へ出向いた(12月4日)後の最初の日曜日。 この日も横風が気になるお天気だったが S2機は脚修理未完でG6のみの訓練。 とはいっても何か有った場合に備えて単独では出来ないし事情内容を知った者の協力が必要なのでこの日も志水さんが来てくれた。 協力関係と共に競争関係にも有って友でもありライバルでもあって お互いに相手の進捗状況 技量向上が非常に気になった事は否定出来ない だから特別な用事が無ければ支援と視察を兼ねてやって来る。 そんな背景があるところで今日は交代なしの訓練 他の条件が同じで有れば訓練数が多いほどうまくなる理屈なのだが。 滑走路が長いから 状況によっては短いジャンプが何度も出来て 最期のジャンプは滑走路端間際で慌てて着陸操作をしたり ジャンプ飛行の距離と高度がだんだん長く高くなってやはり同じ様に急減速する等 全般的に操作が荒れて行った。結局最期は落下着陸
 
とっさの操作で姿勢を立て直して転倒は免れ辛くもローターは助かった。 しかしメイン・ギア(主車輪)の支柱はグシャッと座屈してしまったので機体横から少し力を入れて押せばすぐひっくり返りそうだった。 腫れ物に触れる様な気持ちでエンジンをカットしてローターの回転が止まるのを待って降りて脚支柱に添え木をした。 みんなで機体を支えながらソロリソロりと格納庫へ引き返えす行進 惨めそのもの。 競争意識とかプライドなんても
 
のは無惨に吹っ飛び泣きだけが残った日だった。 現像したフィルムの一駒は阿鼻叫喚焼いてみて驚いた 良くぞまぁローターが地面を叩かなかったものだ
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       G6-2Dk Dec. 6 , 1970
 

13日 壊れた主脚支柱交換修理と機体点検。 この日は例のデモが有ってどのみち訓練は出来なかったし出張準備が有ったりで早々と帰宅。


ライト航空商会の石川氏が本場アメリカのPRA大会の8ミリ映画フィルムを持ってベンセン・ジャイロコプター宣伝行脚をやっていて14日は名古屋地区であったが14,15日は航空宇宙研への出張があって残念ながら本場の映像は見れず終い。


仮称東海ジャイロクラブ

G6 及び S2 共に脚の修理が完了して2機で訓練再開。 G6が突風にうまく対処出来ず滑走路外へ不時着。 この時の荒っぽい操作で操縦系統の一部(クロス・バー)に変形を起こし 手直しのため訓練を中断している間にS2機が安定した素晴らしい飛行を繰り返した。この日の夕方 同好の士が名古屋の伊藤氏宅に集まって仮称東海ジャイロクラブ結成の打ち合わせが行なわれた。 参加者約10名で実験航空隊の吉田パイロットも出席した。
夜遅く帰宅したら航空局の飛行許可書(8日付け及び9日付け)が届いていた。


27日 操縦系統を改修した機体で訓練。

30日 座席や操縦系統の改修~方向舵にトリムダブを追加。


お父さんは「空の下」を飛んだ

昭和45(1970)年12月31日 この年最後の訓練 G6 および S2。 志水さんは全く呑込みが早くまた度胸もあってメキメキ上達して安定した飛行をした~完全脱帽である。 一方私は怖くて今は高度を取る気にならない~飛行許可は下りているというのに~まぁ仕方ない 自分のペースでやるしかないのだ。飛行場に連れて行った3歳の長男は家に帰ってから「おじさんは空高く お父さんは空の下を飛んだ」という意味の報告?を母親にしていた。これは記録ノートにあるメモからの引用なのだが「空の下を飛ぶ」とはいったいどういう事だろうか。 考えて見れば意味深長であって今このメモに気がついて 宿題=航空の用に供するとは? の答えの一つを再発見したような気がする。

s2_s
      空高く飛ぶ志水おじさん-S2型

ともあれ45年末には単なる浮上ではなくて 再現性のある明確なジャンプ飛行が出来る様になった。

これ以前に日本で成功していた動力飛行例は次の通りである。
日本初の快挙は私達(國分、志水)に先立つこと5年近くも前のことだった。


坂元義篤
 
(横浜市)
 
昭和41(1966)年8月1日 浮上、 2日 ジャンプ、3日周回飛行
 
 桶川市ホンダエアポート
 しばらくして(12月?)公式公開飛行が行なわれた。

石崎竜人
 
(下関市)
 
昭和44(1969)年10月19日 非公式ジャンプ(MaC
 
 自衛隊小月基地 

広重重功
 
(久留米市)
 
昭和45(1970)年5月27日 非公式ジャンプ(VW
 
 筑後川河川敷


3年目/昭和46年

ジャイロに興味を持っていつの間にか2年が過ぎた。石の上にも3年と云うではないか今年こそなんとかしよう!。
昭和46(1971)年1月1日及び2日。 ジャンプ飛行訓練。 浅いバンク角で緩いカーブを描いてS字(または逆S字)飛行を試みる。 従来は滑走路の中心から悦脱しないように心がけた飛行だったが 今度は故意に中心から外れる様に操作して又中央部へ戻る。最初は左へ次は右へ滑走路の幅から飛び出さない様に しかも狙った通りのコースを進めるように。 最終的にこれを繋げて連続して蛇行する。 ぎくしゃくしないで滑らかにかつ高度が上がり下がりしないように慎重に。 少こし気になる事もあって この段階でもまだ高度はとれない 高くてもせいぜい3メートルまで。 あまり明確では無いのだがバンクの切り返し時の様に多少大きく運動する時であろうか 操縦桿の振動がひどくなる様だ。ローター・ブレードのトラッキングも操縦しながらでは見極めにくいので 伴走車にその旨話して良く見て貰うが いまいち明確でない。 ベンセンのマニュアルでは2分の1インチ~ブレードの厚さの半分程度までは問題ない~飛べるとしているのだが この範囲に入っているようにも見えるし外れていて1インチほども有るようにも見えると云う。 小休止を入れながらブレードのトリム・タブを調整してみるが結果は代わり映えがしない。


ローター・ブレード折損

46年1月17日 最近やっていた事の繰り返し。 やっているうちにだんだんおかしくなって頻繁にトラッキングの調整が必要になったり 振動のパターンが不安定になったり 思い通りのコースで蛇行飛行が出来なくて滑走路を悦脱したので慌ててスロットルを絞って草むらへ着陸した。 そして駐機中に回転していたローター・ブレードのフラッピング運動が突風などで大きくなってきたのでそれを手で止めようとしてローター中心部の下へ入り込んだとたんにブレードの片側がバキッという大きな音をたてて折れ曲がった。 調べたら接着不良~最近の不具合の原因として納得出来ると言って喜んでは居られない もちろん地上に於ける出来事だったのでラッキーこの上なし 神様には感謝。
外国の事例ではこんなのがあった。 まったく正常に離陸 飛行 いつものように着陸した。ローターの回転数がだんだん下がってくる。その後がいつもと違った。ブレードは本来のドループ位置を越えてだらーんと地面まで垂れ下がった。曲げの力を負担する部材が飛行中に疲労破壊 遠心力を負担するメンバー(このケースでは薄いスチールの桁材)だけで飛んでいた次第。
こんな例も。当局の型式証明をめざして開発されたカナダのメーカー製のスワッシュプレート式3ブレード機。ラフなフィールドをタキシングしていたら1本のブレードがボロッと落っこちた。 フラッピングヒンジピンがやられた結果である。
プロペラを削る ローターを削る とりわけローター これは非常に醍醐味があるとはいうものの 2組目のがやられてしまったわけ。 本当の意味の成功(場周飛行)に向けて3組目に挑戦しなければならない。

bend rotor 1bend rotor 2

        折れ曲がったローター・ブレード


志水さん木曽川の堤防から離陸して周回飛行

最後はエンジン不調で河原に不時着 機体は大破したが負傷は無かった。 この時の模様はしばらくしてから(710219)彼が映写機持参でやって来て8ミリ・フィルム映画で見せてくれた。 堤防の高い所から見下ろす様にして撮影されたそれには まるで水すましの様にスイスイと広い木曽川の水面上を自由自在に飛び回るS2機があって~鮮やか見事な飛行ぶりはスゴーイ 内心穏やかならざるものが有ったが完敗である~そのような話をすると彼は機体を失って残念などと控えめでは有ったが まんざらでもなさそうだった。